学校の先生は忙しいもの。クラスを受け持っていたら、もっと忙しい。生徒が帰宅したらそれでお終いではありません。授業の準備、テストの採点、学校行事に向けた打ち合わせ、生徒の悩みを聞いてあげるなど挙げたらキリがありません。それなのに朝は早いし、思春期の生徒たちからはバカにされる。生徒が非行に走ったら、親よりも真っ先に学校の責任にされてしまいます。
モンスターペアレントが繁殖し続け、キラキラネームによって生徒の名前を覚えるだけでも必死なのに、どんどん授業の内容は改定されていってしまう。そうです、学校の先生は私たちが考えているよりも忙しくて大変なのです。そんな先生たちの忙しさを象徴するような内容が、Twitterに投稿されて、話題を呼んでいます。
せなんさん(@GjixlzyVPnoznzW)は担任の先生との日記のやりとりを公開しました。その内容がコチラ。
なんと、生徒が書いたどの反省文に対しても、担任の先生は「よい」とひと言返すだけに終わってしまっています。いやいや、たまたま超絶忙しかっただけ…
またか!とツッコミたくなりますが、もう少し気の利いたコメントができないのでしょうか。そんな担任の先生に対してあるひとつの疑問がせなんさんの頭をよぎります。
そう、禁断の果実に手を伸ばそうと考えてしまったのです。先生の「よい」に対抗して「よい」と書いたらどうなるのか?もうこの状況下において、「よい」に対抗できる言葉は「よい」しかありません。果たしてその結果はいかに!?
上記の内容への声
現代社会における教育現場の疲弊と、教師と生徒の関係性の希薄化が浮き彫りになっている。多忙を極める教師の「よい」という一言は、もはや形式的な承認に過ぎず、生徒の言葉に真摯に向き合う余裕の無さを象徴しているかのようだ。生徒からの「よい」という挑発的な応答は、教師の無関心に対する抵抗であり、コミュニケーションの欠如という病巣を露わにする。
しかし、問題は教師個人の資質に矮小化できるものではない。モンスターペアレントの増加や教育課程の目まぐるしい改訂など、教師を取り巻く環境は過酷さを増し、本来生徒に向けるべき情熱を奪っている。教師もまた、システムに囚われた犠牲者と言えるだろう。
生徒の心の機微を汲み取り、個々の成長を促すという教育の本質は、どこに行ってしまったのか。画一的な評価と事務作業に追われる教師、そして無関心に抵抗する術を失った生徒。両者の間に広がる溝は、社会全体の教育に対する無関心を反映しているようでならない。
我々は、この「よい」という一言に潜む危機感を共有しなければならない。教師の疲弊を放置することは、未来を担う子どもたちの可能性を閉ざすことに等しい。
教育現場の声に耳を傾け、教師が情熱を持って教育活動に専念できる環境を整備することが急務である。真の教育とは何か、その本質を問い直す時期に来ているのではないだろうか。
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