「お赤飯」=「初潮」って、なんだか昭和の遺物みたいな文化だと思わないか?なんで、あんな恥ずかしいタイミングで「お祝い」しなきゃいけないのか、正直理解できない。生理が来たことを家族に宣言して、赤飯を食べて「大人の仲間入り」なんて、子ども心に逆に恥ずかしさしか残らなかった。たぶん、親は「伝統」とか「お祝い」だと思ってるんだろうけど、そのエゴ、今の時代に通用すると思ってるのか?本当に嬉しいと思ってたのは母親だけじゃないか?
それに、昔の親世代がやってたことをそのまま押し付けるのって、なんか違う気がする。だから、今の母親たちが「赤飯じゃなくて、好きなもの買ってあげる」って選ぶのは、むしろ心に響く。お赤飯が「嬉しいお祝い」なら、どうして私たちの世代はみんな嫌がってたんだろう?これって、単なる「親のエゴ」を育てるための儀式だったんじゃないのか?
コメント1:
「私は赤飯を炊いてもらったけど、逆に嬉しかったかも。小さい頃の自分が大人の仲間入りしたって感じがして。母親の気持ちを考えたら、あれは愛情表現だったんだなって今は理解できる。でも、やっぱり赤飯って家族の中でしか通用しない文化だと思う。」
コメント2:
「自分も赤飯なんて嫌だった。赤飯=恥ずかしい=大人になることを親に認めさせられる、みたいな感じで。結局、私の子どもにはどうしてあげるべきか、悩みどころだよね。伝統か、個人の自由か、難しい。」
コメント3:
「お赤飯を炊かないって、ある意味、親の愛情表現が間接的になった証拠だと思う。私も今の世代として、母がしてくれなかったことを娘にはしてあげたい。でも、過去の経験って本当に無駄じゃなかったなって、今なら少し思う。
」
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