取引先へ退職の挨拶に向かったその日、私はすでに嫌な予感を覚えていた。
会議室に入ると、そこには松田部長と、いわゆる「エリート軍団」と呼ばれる高学歴の部下たちが並んで座っていた。彼らは以前から一貫して、私を「中卒」という理由だけで見下してきた連中だ。
「で、坂本。転職するらしいな」
松田部長は、最初から嘲るような笑みを浮かべていた。
「中卒無能の転職先、教えろよ」
それに呼応するように、周囲の部下たちが吹き出す。
「底辺で言えないか?」
「どうせ聞いたこともない零細だろ?」
私は黙って立っていた。
彼らは知らない。私がどこへ転職するのかを。
そして、この後、自分たちのプライドが粉々に砕け散ることも。
私の名前は坂本、二十九歳。
父はいない。非正規で働く母が、女手一つで私を育ててくれた。生活は常にギリギリで、高校進学は現実的ではなかった。母を少しでも早く楽にしたい、その一心で私は中卒で社会に出た。
建設資材の製造会社に就職し、現場で必死に働いた。誰よりも汗をかき、仕事を覚え、二十七歳で主任に昇進。二十八歳で本社勤務となった。中卒の現場叩き上げが本社に行くのは、極めて異例だった。
そんな私を支えてくれたのが、取引先担当の吉岡さんだった。
だが、その吉岡さんは学歴主義の松田部長から執拗ないびりを受け、ついには胃に穴を開けて入院した。
「彼らは、人を学歴でしか見ないんだ」
吉岡さんの言葉は、残念ながら事実だった。
担当が松田部長に変わってから、取引は地獄のようになった。中卒、低能、社会常識がない。顔を合わせるたびに罵倒され、無理な要求を突きつけられた。
それでも私は耐えた。
取引先である以上、下手に反論して問題を大きくするわけにはいかなかったからだ。
そんなある日、秘書室に異動していた三浦さんが、私に声をかけてきた。
「坂本君、最近…疲れてない?」
そして彼女は、静かに、しかしはっきりと言った。
「転職先、業界一位の超大手企業よ」
三浦さんの幼馴染が、その企業の人事にいて、学歴不問で実力を見る方針だという。
吉岡さんからも以前、「彼は必ず伸びる」と評価されていたらしい。
私は決断した。
そして、内定を得た。
話を戻そう。
取引先の会議室で、松田部長たちが下品な笑い声を上げている、その時だった。
「失礼します」
扉が開き、現れたのは三浦さんだった。
「彼の転職先、知らない方がいいですよ?」
その一言で、空気が変わった。
「どういう意味だ?」
私は静かに答えた。
「業界一位の大手企業です」
内定通知のメールを見せると、松田部長の顔から血の気が引いた。
エリート軍団も言葉を失った。
三浦さんは冷ややかに続けた。
「それからもう一つ。吉岡さんの件、原因は部長だと複数の証言があります。これは重大なコンプライアンス違反です」
その場で、すべてが終わった。
後日、松田部長は降格と左遷。
エリート軍団も処分を受け、吉岡さんは無事に復帰した。
学歴だけで人を判断する人間の末路を、私ははっきりと目にした。
そして私は、新しい職場へ向かう。
中卒だろうと、積み重ねてきたものは、誰にも否定できないのだから。
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