十年ぶりに本社の自動ドアをくぐった瞬間、空気の硬さに懐かしさより先に現実を突きつけられた。ガラス張りのエントランス、磨かれた床、名札の色で階級が分かるような視線――地方工場で泥にまみれて働いてきた俺には、眩しすぎるほどの「都会の職場」だった。
俺の名は黒瀬 恒一、四十七歳。表向きは“製造部門から来たベテラン社員”。今日から本社のプロジェクト室へ復帰となった。理由は簡単だ。海外取引が絡む大型案件が火を噴き、現場と本社の橋渡しができる人間が必要になったから――ただ、それを知っている者は少ない。
席に案内され、着任の挨拶もそこそこに資料の山を整理していると、背後から乾いた声が落ちた。
「……あの、黒瀬さんでしたっけ?」
振り向くと、スーツが似合いすぎる若い男が立っていた。腕時計だけで俺の年収を測るタイプの顔だ。名札には「瀬尾 恒一郎/企画・海外戦略」とある。噂に聞くエリート社員、というやつだろう。
瀬尾は俺の机に分厚いファイルを置いた。
表紙には英語で「Due Diligence Report」と書かれている。
「これ、翻訳しておいてください。中卒の……いや、現場上がりのおっさんでも、辞書引けば何とかなるでしょ? 一時間で全部。締切、昼前です」
周囲の若手が一斉にこちらを盗み見る。笑いを堪えるような気配が混じった。俺は胸の奥でため息をついたが、顔には出さなかった。十年前なら、瞬時に言い返していたかもしれない。だが今は違う。言葉で勝つより、結果で終わらせる。
「承知しました」
俺がそう答えると、瀬尾は満足げに口角を上げた。
「いい返事。……まあ無理なら無理って言ってくださいよ? こっちも時間ないんで」
彼は踵を返し、背中で勝利宣言のような空気を撒き散らして去った。
――一時間、ね。
俺はファイルを開かず、机の上に置いたまま、スマホのメモを立ち上げた。次の瞬間、ページを一枚だけ捲り、冒頭の条文と要旨を目でなぞる。数秒で構造が頭に入る。これは英語が難しいのではなく、意図が露骨な文書だ。
相手の責任範囲、瑕疵の免責、損害賠償の限定。要するに「こちらだけが首を絞められる契約」になっている。
俺はキーボードを叩いた。
三秒――正確には、口の中で文体を整える呼吸一回分。日本語での要約と、交渉上の危険箇所、修正提案を一気に打ち込む。さらに、相手の文化的な言い回しが示す“本音”まで注釈で添えた。
そのままファイルを閉じ、瀬尾の席へ向かった。
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次のページ引用元:https://www.youtube.com/watch?v=szF43J0KhPs,記事の削除・修正依頼などのご相談は、下記のメールアドレスまでお気軽にお問い合わせください。[email protected]