披露宴会場の空気が、あの瞬間だけ凍りついた。
取引先である遊営工業の結婚式。私は一般招待客として妹の美咲を連れて席に着いていた。表向きはグループ会社の社員、名札もそれに合わせている。私が竜神ホールディングスの会長だと知る者は、幹部クラスを除けばほとんどいない。美咲にも、あえて伝えてこなかった。余計な重荷を背負わせたくなかったからだ。
新郎の父であり遊営工業の専務、島崎岳は、酔いが回った赤い顔で私たちのテーブルにふらついて来た。最初は丁寧な挨拶の皮を被っていたが、美咲の学歴を聞いた途端、目の色が変わった。
「中卒か。最近は無能でも雇ってもらえる時代なんだな」
美咲の指先がわずかに震えた。私は言葉を選びながら反論した。「学歴ではなく実力で評価しています。妹は優秀です」だが島崎は笑い飛ばし、周囲に聞こえる声量で続けた。「ウチは大卒以上しか採らない。中卒に実力なんてあるわけない。俺は東大卒だ、学歴が全てだ」
祝いの席を壊したくない。そう自分に言い聞かせ、私は耐えた。だが披露宴が進み、ケーキ入刀の余韻が残る頃、島崎の手には皿に乗った生クリームの山があった。嫌な予感は的中する。
「おい、中卒の君」
島崎は、ニヤつきながら腕を振り上げた。止める間もない。美咲がとっさに顔をそらしたため、ケーキは顔を外れた。しかし白いクリームは黒髪にべったり絡みつき、淡いピンクのワンピースには胸元から袖にかけて無残な染みが広がった。苺が一粒、髪の間に挟まっている。その滑稽さが、逆に残酷だった。
会場が静まり返る。音楽も止まった。来賓たちが凍りついた目で見つめる中、島崎だけが笑っていた。
「中卒無能女は顔面ケーキでもお似合いだと思ってな」
美咲は震え、涙を浮かべた。周囲の女性たちが駆け寄り、ナプキンやおしぼりで必死に拭ってくれる。だが染みは消えない。彼女の尊厳が、目の前で踏みにじられた。
私はゆっくり立ち上がり、島崎を真正面から見据えた。
声は低く、冷たく落とした。
「嫌っ。……ではない。今の行為は許されない。そして」
私は間を置き、確実に届く速度で告げた。
「お前の会社、今潰れたぞ」
島崎は鼻で笑いかけた。「何言ってる。一般社員のくせに」だが次の瞬間、その笑みは凍りつく。
私は名刺入れを開かず、ただ言葉だけで示した。
「私は竜神ホールディングスの会長だ」
ざわめきが広がる。
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