残業明けの朝、蛍光灯の白い光がまだ瞼の裏に残っている状態で、俺は給湯室の紙コップを握り締めていた。冴えない経理――それが、社内での俺の定位置である。数字は間違えないが、存在は目立たない。会議では端に座り、宴席では空いたグラスを見つけて回る。誰も俺に期待などしていない。少なくとも、そう思っていた。
ところがその日、部長の三浦が珍しく俺を呼び止めた。笑顔は柔らかいが、目は逃げ道を塞ぐように真っ直ぐだ。
「悪いな。今度の週末、見合いに行ってくれないか」
聞き返す暇もなく、部長は事情を畳みかけた。取引先の重役の縁談で、相手の女性が「どうしても同年代の会社員がいい」と言っている。だが社内の独身者は皆、気まずい理由で辞退した。そこで経理の俺が選ばれたというわけだ。断る理由はいくらでもあるはずなのに、部長は「頼む、会社のためだ」とだけ言い、名刺サイズの案内状を俺の手に押し込んだ。
週末、指定されたホテルのラウンジは静かで、磨かれたカップの音だけがやけに大きい。
俺は借り物のスーツの襟を直し、約束の席に座った。相手はほどなく現れた。落ち着いた紺のワンピース、整った所作、しかし、顔色はどこか強張っている。名前は高瀬 恒一。年齢は俺と同じ三十前後だと聞いていた。
「はじめまして。……本日は、お時間をいただきありがとうございます」
形式的な挨拶のあと、会話は思うように続かなかった。彼女は質問に丁寧に答えるが、視線が時折遠くへ逃げる。俺の方も得意ではない。気まずい沈黙を埋めるために天気の話をした瞬間、彼女の指先が小さく震えた。
そして、次の瞬間だった。
彼女の目に涙が溜まり、唇がかすかに開く。声が震え、言葉になりかけて崩れた。
「……やっと、見つけました」
俺は思わず姿勢を正した。お見合いの場で言う言葉ではない。冗談でも、芝居でもない。彼女の表情には切迫があった。彼女は鞄を開け、迷うように手を差し入れると、布で包まれた小さな封筒を取り出した。封筒の角は丸く擦り切れ、何度も開かれた痕跡がある。
彼女はそれを両手で差し出した。まるで、祈りを捧げるように。
「これを……見てください。私の家に、ずっと残っていた写真です」
封筒から現れたのは、古い写真だった。色褪せ、端が少し破れている。そこには、まだ幼い男の子が写っていた。五、六歳ほど。頬に泥をつけ、笑いながら片手を挙げている。その隣に、少し年上の女の子が立っていた。女の子は泣きそうな顔で、それでも男の子の手を握っている。
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次のページ引用元:https://www.youtube.com/watch?v=Sk9X1B1685U,記事の削除・修正依頼などのご相談は、下記のメールアドレスまでお気軽にお問い合わせください。[email protected]