千万円を借りたのは、見栄でも無謀でもなかった。畑を継いだ私が、需要の波に応えるためにビニールハウスを増設し、機械を更新し、天候と相場の揺れに耐えられる体制を作るための判断だった。返済は予定どおり。引き落としが遅れたことなど一度もない。妻も帳簿を丁寧に確認し、毎月の数字はむしろ良くなっていた。
だから、その電話は異常だった。
「今週中に、残り千万円を一括返済してください」
受話器の向こうの銀行員の声は、妙に乾いていた。理由を尋ねても、曖昧な言葉で押し切ろうとする。「審査の都合です」「今後の方針です」まるで、こちらの生活を数字の枠で切り取るだけの機械のようだった。私は混乱しながらも、妻の前では平静を装った。
「何かの間違いだろう。銀行へ行って確認してくる」
車で向かう道中、嫌な記憶が浮かんだ。以前、追加融資を軽く相談したとき、窓口でつながれた男の担当者がいた。こちらの作業着を見て、鼻で笑うような声を出した男だ。「農家は収入が不安定ですからね」善意の仮面を被りながら、見下す気配だけは隠しもしない。あの男が、今の電話の主だと気づいた瞬間、胃の奥が冷えた。
案の定、会議室で待っていたのは、例の上から目線の銀行員だった。書類を机に叩くように置き、私の言い分はほとんど聞かない。
「資料を見る限り、赤字が続いています。貸し続けるのは難しい。よって一括返済です」
赤字。そんなはずがない。私は持参した帳簿を開き、妻が作ってくれた収支表を示した。数字は整っている。ところが男が出した資料は、私のものと似ているのに、肝心な部分だけが赤字に書き換えられていた。まるで別の経営を見せられているようだった。
「勝手に進めないでください。
これは何ですか。うちの資料ではない」
男は肩をすくめるだけで、目の奥に嘲りを浮かべた。「農家は感情的で困りますね。契約は契約です」その一言で、私は理解した。これは経営の話ではない。力関係を誇示し、こちらを従わせるための圧だ。
妻の顔が脳裏をよぎった。畑に出て、泥だらけで働いて、帳簿も握り、家を支えている。あの人の努力まで踏みにじられるのは耐えられない。
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