新幹線の中で、ただ席を譲っただけだった。
目の前に立っていたお年寄りが、明らかに辛そうに手すりを握っていた。私は迷わず立ち上がり、「どうぞ」と声をかけた。隣には子どももいたし、そういう姿を見せるのが当たり前だと思っていた。
だが――その瞬間だった。
横からスッと入り込んできた男が、当然のようにその席に座った。
「……は?」
一瞬、何が起きたのか理解できなかった。譲った相手は目の前にいるのに、関係ない男が座っている。私はすぐに言った。
「そこ、違いますよ。今、あの方に譲った席です」
だが男は、こちらを一瞥しただけで、何も聞こえていないかのようにスマホをいじり始めた。
「聞こえてますよね?」
もう一度言うと、男はようやく顔を上げ、鼻で笑った。
「は?早い者勝ちだろ」
その一言で、空気が変わった。
周りの視線が一瞬だけ集まり、また逸れる。誰も関わりたくない、そんな空気だった。だが私は引けなかった。子どもも見ている。ここで黙ったら、それこそ間違っている。
「違いますよ。譲った席です」
すると男は、ニヤニヤしながら体を預けた。
「じゃあどうすんの?どかすの?」
その言い方が、完全に人を舐めていた。
さらに男は続けた。
「打てよ。どうせできねえだろ」
一瞬、頭の中が真っ白になった。
「……何だって?」
「やれよ。ほら。子どもも見てるぞ?かっこいいとこ見せろよ」
胸の奥から、何かが一気に込み上げてきた。手が震えた。視界が狭くなる。
気づけば、私は一歩踏み出していた。
その瞬間――
「やめて!」
子どもが、後ろから私の腕を掴んだ。
「パパ、やめて……」
その声で、一気に現実に引き戻された。
ここで手を出したら終わる。相手の思う壺だ。挑発に乗った時点で、負けになる。
男はさらに笑った。
「ほらな。何もできねえ」
その一言で、また血が上がりそうになる。
――だが。
私は、深く息を吐いた。
そして、ゆっくりと周りを見渡した。
だから俺は、別のやり方にした。
「すみません」
私は少し声を張った。
「今、この人、譲った席を横取りしてますよね?」
その瞬間、空気が変わった。
周囲の視線が一斉に男に集まる。さっきまで見て見ぬふりをしていた人たちが、明らかに状況を理解した顔になる。
「え、マジで?」
「それはちょっと……」
小さな声が、あちこちから聞こえ始めた。
男の表情が一瞬だけ固まる。
「いや、別に……」
さっきまでの強気な態度が、明らかに揺らいだ。
そこへ、お年寄りが遠慮がちに口を開いた。
「……あの、いいんです。私は立ってますから」
その一言が、逆に場を締めた。
「いや、よくないですよね」
後ろのサラリーマンがぽつりと呟いた。
その空気の中で、男は完全に浮いた存在になっていた。
さらに車掌が近づいてきた。
「どうされましたか?」
私は簡単に状況を説明した。
男は何か言い返そうとしたが、言葉が出てこない。さっきまでの威勢は完全に消えていた。
「こちらのお席は譲られたものですね。お立ちください」
静かながら、逃げ道のない声だった。
男は舌打ちをしながら立ち上がった。
だがその時にはもう、周囲の視線がすべてを物語っていた。
勝ったつもりで、全部失ってるぞ。
私はそう思いながら、お年寄りに席を勧めた。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
小さく頭を下げるその姿を見て、ようやく胸の中の熱が少しだけ収まった。
席に戻ると、子どもがまだ私の服を握っていた。
「……怖かった」
「ごめん」
私はそう言って、頭を撫でた。
正しいことをした側が、ここまで我慢しなきゃいけないのかと思った。
それでも――
あの時、手を出さなくてよかったと、心から思った。
記事はまだ終了していません。次のページをクリックしてください
次のページ引用元:,記事の削除・修正依頼などのご相談は、下記のメールアドレスまでお気軽にお問い合わせください。[email protected]