10年程前、作者は25歳の時に片足を失う事故に遭った。
事故の原因は、歩道から飛び出してきた少女を避けるために原チャリが横転し、後続車と衝突してしまったためだった。
その結果、片足を後輪でダメにされてしまい、サッカーなどの趣味はできなくなった。しかし、作者は少女が助かってよかったし、自分の生活が少しだけ不便になるだけで済んだと思い、補償として毎年50万円を手渡しで受け取ることにした。
周囲の人々はこの補償について怒りを抱いていたが、作者はたかが足1本と思っており、それ以来、この家庭との関係は改善されていると感じている。
父親とも酒の席で意気投合し、奥様からは見合い話を持ちかけてもらったりと、作者にとっては好意的な関係を築いている。しかし、少女が結婚することを知り、作者は自分がこの家庭から受け取っている補償のことを考えるようになる。
自分が金に困っていないことや、相手に迷惑をかけることなどを思い、作者は補償を断ろうと決心する。この決断に絶望感を覚えた作者は泣き出し、自身の感情を文章にまとめている。
最終的には、補償を受け取らずに関係を疎遠にしてしまい、自分が片足になったことを忘れることが望ましいと考えている。この物語は切ないエピソードであり、作者の内面の葛藤と決断を描いている。
ネット上の見解
この物語は、一見すると美しい友情物語のように見えます。
事故という悲劇を乗り越え、被害者である作者は加害者家族への寛大な心で和解を選び、良好な関係を築きます。しかし、この美談の裏側には、目を背けてはいけない歪な力関係と、それによって生じる犠牲があることに気づかされます。
作者は「たかが足一本」と軽々しく述べていますが、それは彼自身の複雑な心理が作り出した自己防衛の言葉ではないでしょうか。
本当の意味で事故を乗り越え、対等な関係を築くためには、事故の責任と向き合う必要があったはずです。しかし、少女の家族は、経済的な補償という形で責任を「買い取る」道を選び、作者もそれを受け入れてしまいました。
その結果、作者は心の奥底に葛藤を抱え続けることになります。少女の結婚という人生の転機を前に、作者は自分が「善意の提供者」という立場に縛られ、真の意味での自由を失っていることに気づいたのでしょう。
彼の涙は、10年間押し殺してきた苦悩の表れであり、断絶という選択は、彼自身の尊厳を取り戻すための、悲痛な叫びのように感じられます。
この物語は、私たちに「真の和解」とは何かを問いかけています。それは、過去の過ちから目を背けず、互いの痛みを共有し、対等な立場で未来へ向かうことではないでしょうか。真の友情は、金銭で買うことも、美談に仕立て上げることもできない、人間の尊厳の上に成り立つものなのです。
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