東京本社への異動――。
地方支社で働く社員にとって、それは単なる配置換えではなく、出世への切符であり、努力が認められた証でもある。
その年、私の名前が有力候補として挙がっているという噂は、部署内ですでに広まっていた。
周囲の同僚からも「今回は山本だろう」と言われ、私自身も内心では覚悟を決めていた。
私は山本、三十五歳。
食品会社の地方支社で企画開発部に所属している。中学卒業と同時に工場勤務から社会に出て、現場、正社員登用、適性試験を経て今の部署にたどり着いた。学歴はないが、家庭の事情で培った生活者目線と、地道な実績だけは誰にも負けない自負があった。
そんな折、昼休憩中の社員食堂で、同僚たちと本社異動の話題で盛り上がっていた時だった。
「夢を見るのは勝手だがな」
低く、鼻につく声が割り込んできた。
振り向くと、課長の戸塚が腕を組んで立っていた。
「中卒は田舎で一生終えろ。東京本社は、大卒の俺みたいなエリートが行く場所だ」
あからさまな嘲笑。
同僚たちは険しい顔をしたが、私は何も言わず、ただ笑ってみせた。
戸塚は有名大学卒を誇りにする自称エリートだが、仕事の成果は乏しく、部下に丸投げするタイプだった。にもかかわらず、なぜか自信だけは異常にあった。
その理由は、二週間後に明らかになる。
人事異動の正式発表。
社内メールを開いた瞬間、私は言葉を失った。
東京本社異動者――戸塚課長。
背後から、勝ち誇ったような声が聞こえる。
「ほらな。言っただろ?」
振り返ると、顔を紅潮させた戸塚が立っていた。
「中卒はここで一生下積みだ。
大卒の俺が本社に行く。分かったか?」
正直に言えば、悔しさはあった。
だがそれ以上に、私は確信していた。
――これは、始まりにすぎない。
私は笑いを堪え、あえて穏やかに答えた。
「どうぞ。どうぞ。私はまだ力不足ですから、ここで経験を積みます」
戸塚は拍子抜けした顔をし、その後も捨て台詞を吐いて去っていった。
それから三か月。
戸塚がいなくなった部署は、驚くほど仕事がしやすくなった。新しい課長は誠実で、現場を理解しようとする人物だった。
そんなある日、総務から内線が入る。
「山本さん……戸塚さんが来社してまして……とにかく会いたいと」
会議室に現れた戸塚は、別人のようだった。
身なりは乱れ、目にはクマ、声には覇気がない。
東京本社では、平社員ですら彼より優秀だった。
期待だけで送り込まれた結果、能力不足は一瞬で露呈したという。
そして彼は、頭を下げた。
「頼む……代わりに本社へ行ってくれ。本当は、お前の席だったんだ」
さらに、人事部への不正な働きかけまで自白した。
私は静かに首を横に振った。
「一度決まった人事です。最後までやり遂げてください」
部長も同席しており、その場で事態は上層部へ報告された。
結果、戸塚は懲戒解雇。不正に関与した人事担当も処分された。
東京本社への異動は、ゴールではない。
実力のない者にとっては、むしろ地獄の入口だ。
私は今も地方支社で働いている。
焦らず、自分のペースで、積み重ねてきた経験を信じながら。
あの日、笑って異動を譲った判断は、間違っていなかったと、心から思っている。
記事はまだ終了していません。次のページをクリックしてください
次のページ引用元:https://www.youtube.com/watch?v=5KmiYK4qm4I,記事の削除・修正依頼などのご相談は、下記のメールアドレスまでお気軽にお問い合わせください。[email protected]