37歳という年齢での妊娠。それは、新しい命を授かった喜びと同時に、母体へのリスクや周囲の視線に対する不安と隣り合わせの毎日でもあった。私は母になるという決意を胸に、定期検診のために自宅近くの大学病院を訪れた。しかし、その待合室で、思いもよらない「過去の亡霊」に遭遇することになる。
元夫・大介だった。
かつて駆け出しの研修医だった彼を、深夜の食堂で献身的に支えた日々。それがいつしか、彼を医師として育て上げたという自負と、彼が「私を選んだ」という幸福感に変わっていた。しかし、彼が医師として自信を持つにつれ、その本性は牙を剥いた。
「おい、奈央子。その歳で妊娠したの? キモいんだけど。もうババアじゃん」
廊下に響き渡るニヤけた声。五年ぶりの再会で、彼は相変わらずの暴言を吐き捨てた。かつて「お前は高卒で低学歴な食堂の女だ」と私を蔑み、自分は若くて育ちの良い女性と再婚したと高笑いしたあの日のままだった。
「俺は今日からこの大学病院に赴任するんだ。
お前みたいな低レベルな人間が通う場所じゃないぞ」
彼がかつてと同じ傲慢さで私を侮辱し、お腹の子供まで「豊島の女の子供」と蔑んだその瞬間だった。病院の廊下が、張り詰めたような静寂に包まれた。
「……やめろ! そのお腹の子は!」
背後から響いたのは、この病院の院長、そして産婦人科医である私の現在の夫の声だった。元夫の顔から血の気が引いていくのがわかった。
「……え?」
元夫が呆然と振り返ると、そこには鬼の形相をした院長先生と、怒りに震える夫が立っていた。院長は冷徹に言い放った。「君の言動は、患者様に対する冒涜だ。この病院には、高齢出産に不安を抱えながらも希望を持って通ってくる妊婦さんが大勢いる。君のような人間を、医者として迎え入れるわけにはいかない」
実は、私の今の夫は、この大学病院の産婦人科医であり、院長の息子でもある。夫は私の妊娠を知り、「僕が責任を持って、一番いい環境で君と赤ちゃんを守りたい」と、この病院での受診を提案してくれたのだ。
「妻の年齢での出産は、決して恥ずべきことじゃない。命の誕生を軽んじるような人間に、この病院の白衣を着る資格はない」
夫の毅然とした言葉に、元夫は顔を青くして言い訳を繰り返した。「あいつは元妻で、俺をたぶらかしたんだ!」と喚く彼に対し、夫は静かに告げた。
「彼女はもう、君との過去など微塵も気にしていない。君が今もなお過去に囚われ、人を傷つけることしかできないのなら、医師免許そのものを考え直すべきだ」
その日のうちに、元夫の赴任は取り消され、即刻解雇という処遇が下された。他の患者さんたちも彼の暴言を聞いており、病院としての決定は揺るぎないものだった。解雇を不当だと騒ぎ立てながら病院を追い出されていく彼の背中を、私はただ静かに見送った。
数ヶ月後、私たちは元気な男の子を授かった。
今の夫は、どんな時も私と赤ちゃんのことを一番に考え、優しく寄り添ってくれる。一方で、病院を追われた元夫は、その評判から他の病院でも採用されず、かつて見下していたはずの不安定な日々を送っているという。
過去に受けた傷や、元夫が投げかけた言葉は、時が経てば消えるわけではないかもしれない。けれど、今、私の手の中にある温かな命と、隣で微笑む夫の存在が、あの日の悪夢を完全に過去のものにしてくれた。私はもう、二度とあのような言葉で自分を汚させることはない。母として、一人の人間として、愛に満ちた未来だけを見つめて生きていく。
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