朝から、家の中の空気が少し重かった。
末っ子が熱を出していた。
小さな体で布団にくるまり、頬だけ赤い。
私は何度も体温計を確認し、水を飲ませ、汗を拭いた。
休日らしい休日ではなかった。
けれど、五歳の娘は朝から少し退屈そうだった。
「どこか行きたい」
そう目で訴えてくる。
分かる。
ずっと家にいるのはつまらない。
でも、末っ子を連れて外に出るわけにはいかない。
だから私は、今日は家で過ごすしかないと思っていた。
その時、夫が言った。
「じゃあ俺、娘連れて銭湯行ってくるわ」
私は一瞬、手を止めた。
「え、男湯に?」
夫は当然みたいな顔でうなずいた。
「うん。五歳くらい、まだいけるだろ」
私は胸の奥がざわっとした。
銭湯。
男湯。
五歳の娘。
その三つが並んだだけで、どうしても引っかかった。
「周りに変な人がいるかもしれないし、もう五歳なら男湯はやめた方がいいと思う」
できるだけ落ち着いて言った。
責めたいわけではない。
ただ、怖かった。
娘はまだ小さい。
でも、もう何も分からない年齢でもない。
知らない男性たちがいる場所で、裸になる。
それを「昔は普通だった」で済ませていいのか。
私はそう思った。
すると夫は、すぐ不機嫌になった。
「なんで?そんな銭湯、昔なら五歳ぐらい平気で行ってたわ」
声が少し強くなる。
私は末っ子の額に手を当てながら、夫を見た。
「昔と今は違うよ。私は変な人から娘を守らないとって思う。わざわざ行かなくてもいいんじゃない?」
夫は鼻で笑った。
「お前ほんまおもんないな」
その一言で、部屋の温度がすっと下がった気がした。
おもんない。
そう来たか。
娘の安全を心配しただけで、私は面白くない人間になるらしい。
夫は続けた。
「頑固すぎやろ。お前の人生しょうもないな。お前とおってもなんもおもろないわ。これからお前とおもろいことなんもせんからな」
言葉が、次々と投げつけられた。
私は黙った。
怒りより先に、呆れた。
五歳の娘を男湯に連れて行くかどうか。
その話をしていたはずだ。
なのに、いつの間にか私の人生批判になっている。
話の飛距離がすごい。
銭湯から人生まで、一気に遠投してきた。
私は深呼吸した。
「今の話、娘の安全の話だよね?」
夫は顔をそらした。
「だから、お前が大げさなんだよ」
大げさ。
便利な言葉だ。
母親の不安を黙らせる時に、よく使われる。
心配しすぎ。
気にしすぎ。
昔は大丈夫だった。
でも、その“大丈夫”は誰が保証するのか。
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