赤ちゃんが生まれてから、私はずっと気を張っていた。
昼も夜も関係ない。
泣く時は泣く。
抱っこしても、ミルクをあげても、おむつを替えても、どうしても泣き止まない夜がある。
頭では分かっている。
赤ちゃんは泣くものだ。
でも、集合住宅ではそれだけでは済まない。
壁の向こうには、他人の生活がある。
夜中に泣き声が響くたび、私は赤ちゃんを抱きながら何度も時計を見た。
午前一時。
午前三時。
外は静か。
その静けさの中で、わが子の泣き声だけが大きく聞こえた。
「お願い、泣き止んで……」
そう思う自分が嫌だった。
赤ちゃんは悪くない。
でも、近所に迷惑をかけているかもしれない。
そう考えると、胸が苦しくなった。
特に気になっていたのが、隣の部屋の人だった。
若い男の人。
見た目は少し派手で、車の音も大きい。
駐車場でエンジン音が響くたびに、
「この人に怒られたらどうしよう」
そんなことを勝手に考えていた。
直接話したことはほとんどない。
だから余計に怖かった。
どんな人か分からない。
赤ちゃんの泣き声をどう思っているのかも分からない。
ある日、ポストを開けると、一枚の手紙が入っていた。
宛名はなく、手書きだった。
見た瞬間、心臓が嫌な音を立てた。
「ついに来た」
そう思った。
苦情だ。
夜泣きがうるさい。
非常識だ。
静かにしろ。
そんな言葉が書かれている気がして、開くのが怖かった。
でも、逃げても仕方ない。
私は震える手で紙を広げた。
最初の一行には、こう書かれていた。
「3号室の者です。」
やっぱり隣だ。
喉が詰まった。
次の行を読んだ。
「赤ちゃんがいるとのことで、この手紙を入れました。」
もうだめだと思った。
謝らなきゃ。
菓子折りを持って行くべきか。
管理会社にも相談した方がいいのか。
そんなことが一気に頭をよぎった。
でも、その次の文章で、私は完全に固まった。
「泣き声は全く気にならないのですが」
え。
思わず、もう一度読み返した。
文句ではなかった。
怒りでもなかった。
そこには、こう続いていた。
「逆にうるさくないか心配です。」
私はその場で動けなくなった。
さらに手紙には、
「夜遅くに起こしてしまったり……」
「うるさければいつでも壁から伝えて頂きたいです。」
そう書かれていた。
文句を言われると思っていた相手が、逆にこちらを気遣っていた。
赤ちゃんの泣き声ではなく、自分の生活音を心配してくれていた。
その瞬間、張り詰めていたものが一気に切れた。
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