弟が念願のスポーツカーを買ったのは、去年の春だった。
赤い車体に低い車高、エンジン音も独特で、車に詳しくない私でも「大事にしているんだな」と分かる一台だった。
弟は休日になると自分で洗車をし、雨の日は極力乗らず、駐車場にもカバーをかけていた。
そんな弟の車に目をつけたのが、同じマンションに住む若い奥さんだった。
彼女は以前から少し距離感のおかしい人で、会えば「それどこで買ったの?」「今度貸して」などと、遠慮のないことを平気で言うタイプだった。
ある夕方、弟が駐車場で車を拭いていると、その奥さんが満面の笑みで近づいてきた。
「ねえ、その車かっこいいね。うちの夫と旅行に行きたいから、その車貸してよ!」
私は横で聞いていて耳を疑った。
いくら近所でも、他人のスポーツカーを旅行用に貸してほしいなど、普通は言わない。
弟もさすがに断るだろうと思った。
ところが弟は、にこっと笑って言った。
「いいっすよ^^」
私は思わず弟を見た。
奥さんは目を輝かせた。
「本当? じゃあ土曜の朝に借りに来るね。夫にも言っておくから!」
そう言い残して、彼女は上機嫌で去っていった。
私はすぐ弟に詰め寄った。
「本気で貸すつもり?」
弟は洗車用のタオルをたたみながら、平然と答えた。
「貸すとは言ったけど、無料で無条件に貸すとは言ってないよ」
その時の弟の顔を見て、私は少しだけ嫌な予感がした。
そして約束の日の朝。
奥さんは大きな旅行バッグを持ち、隣には困惑した表情の夫を連れて現れた。
奥さんは当然のように手を差し出した。
「じゃあ鍵ちょうだい。早く出ないと渋滞するから」
弟は笑顔のまま、封筒を差し出した。
「その前に、こちらに記入をお願いします」
封筒から出てきたのは、車両使用に関する同意書だった。
そこには、運転者の免許証確認、任意保険の対象外であること、事故や故障時は全額弁償、傷一つでも修理費を負担、さらに預かり金として五十万円を先に預けることが細かく書かれていた。
奥さんの笑顔が固まった。
「なにこれ。大げさじゃない?」
弟は穏やかに言った。
「大げさではありませんよ。数百万円の車を他人に貸すんですから」
奥さんは苛立ったように夫を見た。
「ちょっと、あなたからも言ってよ。近所なんだから普通貸してくれるでしょ」
しかし夫の方は、書類を見た瞬間に顔色を変えていた。
「お前、これを無料で借りるつもりだったのか?」
どうやら夫は、奥さんから「知り合いが好意で車を貸してくれる」としか聞かされていなかったらしい。
さらに弟が確認した。
「ちなみに、この車はマニュアルです。運転される方はMT免許をお持ちですか?」
夫は気まずそうに首を振った。
「俺、AT限定です」
その瞬間、奥さんの顔が真っ赤になった。
「そんなの先に言ってよ!」
弟は一切表情を崩さなかった。
「聞かれませんでしたので。それに、そもそも保険の関係で簡単には貸せません」
奥さんはなおも食い下がった。
「じゃあ、あなたが運転して送ってくれればいいじゃない。どうせ暇なんでしょ?」
その言葉に、夫がついに声を上げた。
「いい加減にしろ。他人の車を借りるだけでも非常識なのに、運転手までさせる気だったのか」
奥さんは黙り込んだ。
弟は最後に、丁寧な声で言った。
「旅行ならレンタカーを予約された方がいいですよ。あと、今後うちの車を貸すことはありません」
結局、その夫婦はその場で口論になりながら帰っていった。
後で聞いた話では、奥さんはSNSに「週末は高級スポーツカーで旅行」と投稿までしていたらしい。
夫に見栄を張るために、弟の車を勝手に利用するつもりだったのだ。
それ以来、奥さんは私たちを見ると気まずそうに目をそらすようになった。
弟は相変わらず休日に車を磨いている。
ただし、駐車場には新しく防犯カメラが増えた。
「いいっすよ^^」という弟の笑顔は、許可ではなく、非常識な相手を静かに追い詰めるための始まりだったのだ。
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