高級寿司店のカウンターで、孫が「タマゴをください」と無邪気に注文した瞬間だった。
隣に座っていたスーツ姿の男が、露骨に舌打ちをした。
「卵ばっかり頼みやがって。ここは貧乏人が来る店じゃないんだよ。一流企業に勤める俺らが来る場所なんだ」
吐き捨てるような声に、店内の空気が凍りついた。
私は鈴木英子。地元で三十五年続く「スーパー鈴木」の副社長だ。夫が義父の八百屋を継ぎ、惣菜や寿司まで扱う店へと育て上げた。私はレジに立ち、品出しをし、湿布を貼りながらでも店を守ってきた。預金も、取引も、決して小さくはない。だがその日、私はただの「孫を連れた祖母」だった。
息子夫婦に頼まれ、孫娘のもえを預かっていた。結婚式に出席するため、子どもは連れていけないという。ご褒美にと連れてきたのが、近所で長年付き合いのある大将の寿司店だった。
「回ってないね、おばあちゃん」
緊張気味のもえに、「好きなものを頼んでいいのよ」と言うと、迷いなく「タマゴ」と答えた。
三回続けてタマゴを頼んでも、私は微笑ましく見守った。大将の焼く卵は自慢の一品だ。甘さと出汁の加減が絶妙で、私の店でも同じ仕入れ先を使っている。
だが男は、それが気に入らなかったらしい。
「貧乏臭いんだよ。スーパーの寿司でも食ってろ」
胸元の社員証を見せびらかしながら、「俺は都内の大手銀行勤務だ」と誇らしげに名乗った。確かに誰もが知る都市銀行だった。
もえが不安そうに私を見る。
「おばあちゃん、他のにした方がいいの?」
その一言に、胸が締め付けられた。
「気にしなくていいのよ。食べたいものを食べるの」
そう抱きしめた直後だった。
男はテーブルの湯呑みを掴み、もえの頭からお茶をぶっかけた。
「泣くんじゃねえ。寿司がまずくなるだろ」
店内がざわめく。大将が「警察呼ぶぞ!」と怒鳴り、男は一万円札を叩きつけて逃げた。
私は震える手で、ある人物に電話をかけた。
その銀行の支店長だ。
実は、私たちはその銀行の大口顧客である。三十億円近い預金と運転資金を預けてきた。
長年の信頼関係があった。
数日後、大将から「例の男が来た」と連絡が入った。
私は閉店間際のスーパーから、半額シールを貼る前の寿司パックを持ち、大将の店へ向かった。
「また来たのか、卵の貧乏人」
男――山下は私を見るなり笑った。
私はわざと隣に座り、彼と同じネタを注文した。白身、イカ、ホタテ。彼は得意げに「こうやって食べるんだ」と講釈を垂れる。
私は静かに言った。
「それ、うちのスーパーの寿司ですよ」
大将が頭をかく。
「悪いな、英子ちゃんに出すはずのを間違えて隣に出しちまった」
山下の顔色が変わる。
「は? そんなわけないだろ!」
「シャリは電子レンジで三十秒。ネタは一度冷水にくぐらせてるの。半額寿司でも美味しくなるのよ」
完食した自分の皿を見つめ、山下は絶句した。
その時、暖簾が揺れた。
「鈴木様、お待たせしました」
入ってきたのは、例の銀行の支店長だった。
「口座解約の件で…」
「な、なんで支店長がここに…」
支店長は事情を聞き、スマートフォンで例の動画を確認した。あの日、店内の客が撮影してくれていたのだ。罵倒と、お茶をかける瞬間がはっきり映っている。
「山下、お前は何をしている!」
雷鳴のような叱責が飛んだ。
「ゴミみたいな預金」と言った相手が、銀行の大得意先だったと知り、山下は土下座した。
だが私は静かに告げた。
「孫にしたことは、消えません。明日、正式に解約に伺います」
後日、私たちは被害届を提出した。大将も営業妨害で損害賠償請求を行った。山下は懲戒解雇こそ免れたが、地方の港町へ左遷となったと聞く。
一方で、あの一件は噂となり、「スーパー鈴木の寿司は高級店レベル」と評判が広がった。閉店前の半額寿司も飛ぶように売れる。
私は必ず伝える。
「シャリは三十秒温めて、ネタは冷水にさっと。そうすれば、もっと美味しくなりますよ」
そして月に一度、もえを連れて大将の店へ行く。
「今日は何が食べたい?」
「タマゴ!」
迷いのない笑顔。
大将が目を細める。
「うちで一番自信があるのは卵なんだよ」
あの日の男とは違い、もえは本当に美味しいものを知っている。
お金の多寡で人の価値は決まらない。
笑顔で、好きなものを胸を張って食べられること。
それが、私にとっての本当の“高級”なのである。
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