その日は、どこにでもある穏やかな平日だった。夕食の支度をする妻の鼻歌が、リビングに漏れ聞こえてくる。私はソファでくつろぎながら、何気なくスマートフォンを眺めていた。その時だった。見知らぬ番号から着信があった。
「もしもし、〇〇警察署の者ですが……」
受話器の向こうから聞こえてきたのは、事務的で、かつ重苦しい声だった。 「ご家族の〇〇様が、先ほど駅前の交差点で自動車事故に遭われました。現在、意識不明の重体で、△△病院へ搬送されています。至急、駆けつけてください」
心臓が跳ね上がった。事故? 意識不明? 私は思わず苦笑いさえ浮かべそうになった。だって、妻は今、キッチンで野菜を切っているのだから。
「あの……何かの間違いでは? 妻なら今、目の前で夕食を作っていますが」
私は電話越しに、妻の存在を伝えた。
しかし、警察官の声は微塵も揺らがなかった。
「いえ、間違いありません。所持品から免許証と保険証を確認しました。今すぐ来てください」
不審に思いつつも、私はキッチンへ向かった。 「おい、ちょっといいか……」
しかし、キッチンには誰もいなかった。野菜は半分に切られたまま、まな板の上で乾き始めている。コンロの火は消され、部屋には先ほどまで聞こえていたはずの鼻歌も、生活の気配も消えていた。
ただ、窓が開け放たれ、夕暮れの風がカーテンを不気味に揺らしているだけだった。
「……嘘だろ」
私は急いで病院へ向かった。車を走らせながら、頭の中はパニックで埋め尽くされていた。先ほどまでそこにいた妻は、誰だったのか。あるいは、私が今見ている世界そのものが、何かの錯誤なのか。
病院の集中治療室前には、看護師と数人の警察官が待機していた。私を見るなり、担当医が重い口調で告げた。
「残念ながら、非常に厳しい状況です。衝突の衝撃が強く、脳に致命的なダメージを負っています」
私は震える手で、ベッドのカーテンを開けた。そこにいたのは、間違いなく私の妻だった。青白い顔で、無数の管に繋がれている。彼女のバッグもそばに置かれていた。中を確認すると、私の見慣れた財布、キーケース、そしてつい先ほどまで彼女が身につけていたはずのアクセサリーがすべて揃っていた。
では、数分前まで家にいたのは誰だ。
私は混乱の中で、一つだけ確認しなければならないことがあった。
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