「ああ、あの人がいないと、本当にのびのびできるわね」
病院の冷たいベッドの上で、私――中川悦子、68歳は、その信じがたい言葉を耳にしてしまいました。
その声は、病室の静けさの中であまりにもはっきり響きました。私の手には、まだ息子に電話をかけたばかりのスマートフォンが握られていました。操作を誤ったのか、通話は切れておらず、スピーカーから嫁のマリエさんの声が漏れ続けていたのです。
その日の朝、私は医師からあまりにも過酷な宣告を受けたばかりでした。
診察室の白い壁。机の上に置かれた検査結果。医師は何度も言葉を選ぶように視線を落とし、それから静かに告げました。
「中川さん、検査の結果をお伝えします。残念ながら病情はかなり進行しています。余命は長くて3ヶ月といったところでしょう」
68歳で突きつけられた突然の死の宣告。
頭の中が真っ白になりました。
耳の奥で医師の声だけが遠く響き、私は自分の手が震えていることにも、すぐには気づけませんでした。
病室に戻ると、私は震える指先で息子の省吾に電話をかけました。
省吾は、私の血のつながったたった1人の息子です。3年前から、私は省吾夫婦と同居していました。こんな時に頼れるのは、息子しかいないと思っていました。
「省吾、お母さんよ。どうしても話しておきたいことがあるの。今、少しだけ時間を――」
けれど、電話の向こうから返ってきたのは、焦ったような息子の声でした。
「母さん、今忙しいんだよ。マリエのお母さんの還暦祝いの準備でバタバタしてるんだ。後にしてくれないか」
私は唇を噛み、ベッドのシーツを握りました。
「でも、お母さん、今入院することになって……」
「え? 入院? まあ、それはそれで好都合だったかもな」
その瞬間、電話の向こうでマリエさんの声が割り込んできました。
「まだ電話してるの? 早く切ってよ」
そして、彼女はためらいもなく言いました。
「お母さんが入院? へえ。いないなら清々するわ。邪魔者が消えてくれて」
私の手から、スマートフォンが滑り落ちました。
余命3ヶ月の実の母親より、嫁の母の還暦祝いの方が大切だという事実。
そして私は、彼らにとってただの邪魔者でしかなかったという現実。
その瞬間、私の中で何かが音を立てて崩れました。けれど同時に、胸の奥から静かな怒りが込み上げてきました。
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