あれはもう何年も前のこと。ふとしたきっかけで久しぶりに思い出した、ちょっと不思議で、少し切なくも心が温かくなる出来事があった。
当時の私はまだ20代、都心のオフィスで毎日遅くまで働いていた。残業続きの中で、終電に揺られて無心に車窓を眺める時間が唯一、自分をリセットする瞬間だった。
その夜もいつものように終電。確か秋の肌寒い夜だったと思う。長引いた仕事でクタクタになりながら、最寄り駅に向かう電車に乗った。車内は空いていて、私は端のシートに一人腰を下ろした。他の乗客もまばらで、誰もがスマホをいじったり、目を閉じたりして静かな時間を過ごしていた。
駅を2つほど残したあたりで電車が停まり、誰かが乗ってくる気配がした。
特に気にも留めずぼんやりしていたその瞬間、右隣に「ぴょん」という軽い感触が。反射的に顔を向けると、そこにいたのは——一匹の猫だった。
本物の、痩せた体つきの、毛並みが少しボサついた猫。大きな丸い目でじっとこちらを見ていた。私は一瞬、固まった。「え?」と声には出さなかったが、頭の中はパニック。首輪もしておらず、明らかに飼い猫ではない。誰かの連れでもなさそうだった。
猫は私の顔を見ながら、小さく「にゃ」と鳴いた。そしてそのまま座席にストンと座り、前足を揃えて静止した。まるで、最初からそこが自分の席であるかのように。
心の中では「これは夢か?」「野良猫が電車に乗ってくることなんてあるのか?」と混乱が渦巻いていた。
周囲の乗客は気づいていないのか、それとも「ああ、またか」という表情で無反応だった。
猫は堂々と、しかし品よく座席に座り、少しだけ体を寄せてきて、私の匂いを嗅いだ。
その距離感の近さに思わず笑いそうになったが、なぜか嫌な感じはまったくしなかった。むしろ、不思議なほど心が落ち着いていく感覚があった。
猫と並んで座っていたのはほんの数分だったが、永遠のようにも感じられた。そして、次の駅でドアが開くと、猫はすっと立ち上がり、こちらを一瞥して再び「にゃ」と鳴いた。まるで別れの挨拶のように。そして、ホームに軽やかに降り立ち、そのまま夜の街へと消えていった。
私は呆然とその背中を見送った。家に帰って風呂に入り、布団にくるまっても、あの猫の柔らかな感触と存在感だけがいつまでも残っていた。
翌日、職場でその話を同僚にしたところ、当然のように爆笑された。「疲れすぎて幻覚見たんじゃないの?」と言われた。
でも、私は確かに感じたのだ。猫のぬくもり、体温、足元にふわっと伝わった重み、そしてあの小さな鳴き声。
その後、何度か同じ電車に乗ったが、あの猫には二度と会えなかった。ただ、一度だけ、駅のホームの新聞自販機の上に、似たような猫が座っていたのを見たことがある。やっぱり私をじっと見ていた。それも幻だったのかもしれない。
だけど、あの日、確かに私は野良猫と隣同士で電車に乗った。そして、誰にも言われなかった「お疲れ様」を、その猫が伝えてくれたような気がした。
慌ただしい日常の中で、ふと入り込んできた小さな“異物”。その不思議な存在が、疲れた心をそっと癒してくれることがある。あの夜、電車で出会った猫は、私にとって奇跡のようなひとときだったのだ。
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