かつて三大遊郭として大阪の新町遊郭、京都の島原遊郭と並び繁栄していた吉原遊郭。江戸文化の中心地でもあり、多くの客が女遊びを目当てに訪れていました。幕末から明治時代にかけて、吉原遊郭は日本の歴史の中で重要な役割を果たし、江戸時代から続く遊郭文化が継承されていました。
ここでは、幕末明治時代の吉原遊郭について、当時の古写真を見ながらその実態を概観してみましょう。
吉原遊郭は、千六百二十三年(元和九年)に江戸幕府から認可を受け、遊女屋が集められた遊郭として始まりました。初めは江戸日本橋にありましたが、明暦の大火で全焼し、その後浅草寺裏の日本堤に移転しました。移転前の遊郭を「元吉原」、移転後の遊郭を「新吉原」と呼びました。
移転に際して幕府は一万両、現在の価値で約十九億円を支給したと言われています。新吉原では多くの遊女が働き、最盛期には三千人以上の遊女がいたと言われ、巨額の金が動く賑わいを見せていました。しかし、その華やかさの裏には、多くの遊女が厳しい生活を強いられていた現実もありました。
遊女の多くは農村の口減らしや親の借金のために売られてきました。吉原の遊女たちは、年季奉公の期間中、外出することも自由にできず、ほとんどの時間を遊郭内で過ごしていました。遊女の生活は過酷で、休日はほとんどなく、正月とお盆の年に二回だけという時代もありました。
吉原の遊女は、文字通り体を使って働いており、十年間の年季が明けるまで特定の恋人を持つことさえ許されませんでした。年季が明けても吉原に残り、最下級の遊女として働く者も少なくありませんでした。
吉原遊郭の頂点に立つのは花魁と呼ばれる高級遊女です。花魁は、美貌はもちろん、古典や囲碁、書道、茶道、舞踊などの芸事にも秀でていることが必須でした。花魁になるためには数千人いる遊女の中から選ばれた一握りであり、その地位は特別なものでした。
花魁は、仮店で客を引く必要がなく、指名があれば妹分の遊女を引き連れて客の待つ部屋まで練り歩く「道中」を行いました。この様子は後に「花魁道中」と呼ばれ、吉原の名物となりました。花魁は、現代の価格に換算すると一晩で約十万から十五万円の料金がかかり、宴会代や芸者代も含めるとさらに高額でした。
吉原遊郭は、江戸町奉行所や東京府の重要な資金源であり、遊女たちが逃げ出さないよう厳しく監視されていました。新吉原の出入口は「大門」と呼ばれる扉のない正門のみで、敷地の周りには塀が巡らされていました。脱走を試みる遊女もいましたが、厳しい監視下でほとんど成功しませんでした。
明治維新以降、吉原遊郭は外国からの批判もあり、明治政府は近代的な法律で遊郭を管理しようとしました。明治五年に出された「芸娼妓解放令」は、遊女の解放を謳ったものでしたが、実際には売春そのものを禁止するものではなく、多くの遊女が再び遊郭に戻されました。
千九百五十八年(昭和三十三年)の売春防止法の制定により、江戸時代から続いた公娼制度としての新吉原は消滅しました。
江戸時代から明治時代にかけて、吉原遊郭は繁栄と苦難が交錯する場所でした。遊女や花魁の生活は過酷でありながら、その美しさや芸事に秀でた姿は多くの人々の心を引きつけました。遊郭や遊女の歴史は、現代でも日本の伝統文化や芸術の一部として興味深いテーマです。
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