電車のドアが閉まった瞬間、私は思わず二度見した。
小さな男の子が——
ベージュのハイヒールを履いて立っていた。
その隣には母親らしき女性。
彼女の足元は、明らかにサイズの合っていない子ども用のスニーカー。
一瞬、車内の空気が「?」で止まった。
でも次の瞬間、私は気づいた。
これは“変な光景”じゃない。
とても静かな、優しい出来事の途中なのだと。
電車が揺れる。
男の子はぎこちなくバランスを取りながら、しっかりとつり革を握っている。
ヒールは大きく、明らかに歩きにくそう。
それでも真顔で、まっすぐ前を見て立っている。
お母さんは片手でポールを持ち、もう片方の手をそっと男の子の背中に添えていた。支えるというより、見守る手つき。
近くにいた女性が小声で言った。
「靴擦れ、かな…」
たぶんそうだろう。
久しぶりのお出かけで、少し無理をして履いた靴。
歩いているうちに足が痛くなった。
そんな、どこにでもある一日の一場面。
でも、この子はそこで“子ども”をやめたんだと思う。
男の子が小さな声で言った。
「ママ、足もう痛くない?」
お母さんは少し驚いた顔をしてから、ふっと笑って頷いた。
「うん、大丈夫だよ」
その笑顔は、安心と、少しの誇らしさが混ざっていた。
車内の空気が、いつの間にかやわらかくなっていた。
誰も何も言わないのに、みんな同じものを見ていた気がする。
次の駅で電車が止まる。
ドアが開き、人が動き出す。
お母さんはしゃがんで、男の子の足元に手を伸ばした。
「ありがとうね。もう平気だから、戻そっか」
ヒールを脱がせ、スニーカーを履かせる。
男の子は少し照れたように笑った。
「今日はママ守ってくれてありがとう」
その一言に、胸がぎゅっとなった。
“守られる側”だと思っていた存在が、
いつの間にか誰かを守れるようになっている。
特別なことなんて起きていない。
事件も奇跡もない。
でもあの電車の数分間、
私は確かに“愛が形になる瞬間”を見た気がした。
ヒーローは、マントを着ていない。
ランドセルでもない。
時々、少し大きすぎるハイヒールを履いている。
そしてそのヒーローは、
たぶん自分がすごいことをしたなんて、思ってもいない。
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