二十八億円規模の商談だと聞かされた瞬間、胸の奥が冷たく締まった。数字の大きさに怯えたのではない。相手が「元請け」だったからだ。彼らは業界の頂点に立ち、下請けの声を都合よく消す術を身につけている。けれど今回だけは、こちらにも切り札があった。町工場が十年かけて磨き上げた独自機構の特許。あれがなければ、相手の新型生産ラインは完成しない。
会議室に通され、名刺を差し出し、資料を整え、私は静かに姿勢を正した。担当者は「すぐに部長が来ます」と言ったきり戻らない。時計の針だけが淡々と進み、空調の音がやけに大きく聞こえた。十分、三十分、一時間。問い合わせても「ただいま調整中です」の一点張り。やがて昼をまたぎ、五時間が経過した。
私は怒鳴らなかった。席を蹴って帰ることもしなかった。机の上の契約書案に視線を落としながら、ただ理解した。これは交渉ではなく、服従の確認だ。小さな町工場の課長が、元請けの都合に合わせて黙って待てるかどうか。
その試験に合格した者だけが、次のテーブルに呼ばれる。
五時間目、ようやく扉が開き、背広の男が二人入ってきた。表情は硬く、謝罪の言葉は薄い。先方は開口一番、「特許使用料を三割に下げてください」と言った。こちらが譲って当然だと言わんばかりの口調だった。私は胸の内で小さく息を吐いた。やはり、彼らは特許を“部品”だと思っている。値切れば安くなる消耗品だと。
私は静かに答えた。「契約は、特許の範囲と実装条件を守ることが前提です。価格だけで扱うものではありません」相手の眉がわずかに動く。次いで投げかけられたのは脅しだった。「ウチと組めなければ、御社は今後の取引が厳しくなりますよ」
その瞬間、言葉より先に確信が立った。彼らはまだ理解していないのだ。ウチと特許契約しないと生産ラインが止まるという現実を。私は声を荒げず、資料を丁寧にしまい、椅子を引いた。「本日はこれ以上、実りある議論にならないようです。失礼します」驚いた顔が見えたが、私は見なかった。
町工場に戻ると、油と鉄の匂いがいつも通り迎えた。現場の若い職人が「どうでした」と聞く。私は大きく語らず、短く言った。「動くのを待つだけの相手とは、仕事にならない」社長は黙って頷き、夜遅くまで図面を見直した。こちらは小さい。だが、小さいからこそ、守るべき線が明確だった。
それから一週間。元請けからの連絡は一度もなかった。代わりに、業界の噂がじわりと流れてきた。
「新ラインの立ち上げが遅れている」「試作機が規格を満たさない」原因は単純だった。彼らが代替技術で特許を迂回しようとした結果、歩留まりが崩壊したのだ。現場は停止と再調整を繰り返し、損失は日ごとに膨らんでいった。
一週間目の月曜、工場の電話が鳴った。先方の声は、あの日の傲慢さを削り落としていた。「改めて、契約の件でお時間をいただけませんか」私は受話器を置かずに、窓の外の旋盤の音を聞いた。五時間無視された記憶が脳裏をよぎる。だが私の口調は、最後まで崩さなかった。
「契約内容は、こちらの提示条件が基準になります。特許の範囲、実装条件、監査、違反時の停止条項も含めてです」沈黙が落ちる。相手の喉が鳴る気配がした。彼らは初めて理解したのだろう。値切る余地のある“部品”ではなく、生産ラインの心臓部を握っているのがこちらだということを。
電話を切ったあと、社長が私を見た。「行くのか」私は首を振った。「今度は向こうが来ます。
町工場の現場を見せて、条件を飲ませる。それが対等というものです」
五時間フル無視された二十八億の商談は、屈辱で終わらなかった。黙って帰った一週間後、止まったのは彼らの生産ラインだった。そして私たちは、黙って耐える側ではなく、技術で交渉を成立させる側へ立ち直ったのである。
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