俺の名前は佐田憲二。五十歳。病院で看護師として働き、これまで幾度となく「別れ」の場面に立ち会ってきた。だが、あの夜の別れほど、胸の奥を鈍く抉ったものはない。
テーブルの上には、緑色の離婚届。俺の署名と印鑑は、すでに押してある。ため息が漏れたのは、決断に迷いがあったからではない。五年間の結婚生活が、いつしか“戦い”に変わってしまった現実を、紙一枚が冷酷に突きつけてくるからだ。
妻の麻美は三つ下。職場で医療事務をしていた。互いに仕事一筋で、恋愛や家庭を後回しにしてきた者同士、気が合った。四十五歳と四十二歳の遅い結婚。子どもは諦め、その代わり「生涯を共にする」と誓った――はずだった。
だが、現実は甘くない。夜勤のある俺と、日勤中心の麻美。生活のリズムは噛み合わず、すれ違いが増えていく。そこに麻美の体調の変化が重なった。更年期。理由のない苛立ち、だるさ、涙、眠れない夜。苦しいのは本人だと分かっていても、俺はうまく受け止められなかった。
気遣いの言葉が遅れ、些細な一言が刺さり、夫婦の会話は“攻撃と防御”になっていった。
ある日、俺は思ってしまったのだ――一緒にいる意味があるのか、と。
その夜も、麻美は素っ気なく帰宅した。
「……いたなら返事くらいしてよ」
「おかえり」
温もりが消えた家。俺は離婚届をテーブルの下から出し、言った。
「離婚しないか」
麻美は、驚かなかった。まるで、ずっと前から答えを用意していたように、冷静に言い放った。
「……分かったわ」
俺が差し出すと、彼女は迷いなく署名し、印鑑を押した。泣きもしない。怒りもしない。その無表情が、逆に怖かった。
「明日、役所に出す」
俺がそう告げると、麻美は淡々と台所に立ち、夕飯を作り始めた。いつもと同じ。いつも通り食べて、いつも通り早く寝る。離婚が決まった夜なのに、何も変わらない。その“不気味な平然”が、俺の胸に残った。
ただ、寝る直前――久しぶりに同じ寝室に入った時、麻美はぽつりと言った。
「こうして一緒に寝るの、久しぶりね」
別々のベッドで過ごしてきた俺たちが、なぜかその夜だけ、昔話をした。結婚当初、同じベッドで眠っていたこと。俺の寝相が悪すぎて、すぐ別々になったこと。麻美が寒いふりをして、たまに俺のベッドにもぐり込んできたこと。
そして俺は気づいた。麻美のパジャマが、薄着だった。
彼女は小さく笑って、布団をめくりながら言った。
「寒いから……入っていい?」
記事はまだ終了していません。次のページをクリックしてください
記事はまだ終了していません。次のページをクリックしてください
次のページ引用元:https://www.youtube.com/watch?v=pV_aQDhwUJw,記事の削除・修正依頼などのご相談は、下記のメールアドレスまでお気軽にお問い合わせください。[email protected]