私の夫は、昔から「いいかっこしい」な性格だった。
とにかく周囲から「良い人」「頼れる人」と思われたい欲が強く、そのためなら自分の家庭を犠牲にすることさえ厭わない。結婚当初は「人当たりが良い夫」と思っていたが、子どもが生まれてからはその性質が歪んだ形で表れるようになった。
たとえば、子どもの親子遠足。普通なら我が子と寄り添い、思い出を作る時間のはずなのに、夫は他の子たちに構い始め、うちの娘を一人ポツンとさせた。本人は「子どもたちに人気の俺」に酔っていたのだろう。だが、娘がどんな気持ちで一人取り残されていたか、夫はまるで考えようとしなかった。
園の行事でも同じことがあった。遊びの時間、夫は他の子どもとばかり遊び、娘の存在は後回し。娘は泣きそうな顔をして私の元に寄ってきた。その光景を見て、胸が締め付けられる思いがした。
そして決定的だったのが、義実家でのクリスマス。
義両親や義妹家族が集まり、華やかな食卓が囲まれていた。その場で夫はまたしても娘を放置し、甥っ子たちとゲームに夢中になった。甥っ子たちは父親がいない。確かに同情すべき点はあるだろう。しかし、だからといって自分の娘を孤独にさせてよい理由にはならない。
私が「どうして娘を放っておくの」と問い詰めると、夫は逆ギレ気味に叫んだ。
「甥は父親がいないんだぞ!かわいそうだろ!!」
その言葉を聞いた瞬間、心の中で何かがプツリと切れた。娘だって自分の父親にかまってほしいのだ。
血のつながりのある親に無視されることが、どれほど子どもの心を傷つけるか、なぜ分からないのか。
年が明けてからも、夫の「いいかっこしい」は止まらなかった。実家へ挨拶に行ったとき、夫は新品のスニーカーを履いていた。それは私と娘が選び、夫にプレゼントしたものだった。ところが義妹の息子、つまり甥っ子の一人が「その靴欲しかったんだ」と口にした瞬間、夫はあっさりと靴を差し出したのだ。
「妹はシングルマザーでメーカー品なんて買えないだろうし、サイズも1センチ違いならすぐ履けるよ」
善意を装ったその言葉に、私の怒りは頂点に達した。
――それは、私と娘からのプレゼントだったのに。
その夜、私はついに夫に告げた。
「甥っ子たちの父親代わりになれて良かったね。これからは思う存分そっちの父親をやればいい。私は娘を連れて実家に帰ります。」
荷物をまとめ、娘の手を引いて自分の実家へ帰った。背後で夫が慌てて何かを叫んでいたが、もう耳を貸す気にはなれなかった。
後日、夫から「誤解だ」「つい流れで…」と弁解の電話があった。しかしその電話を取ったのは私の父だった。孫娘を溺愛する父は、夫の「甥が欲しがったから、つい靴をあげてしまった」という言い訳を聞くや否や、激怒した。
「孫娘の気持ちを踏みにじってまで見栄を張るのか!親として恥を知れ!」
父の怒声に、夫は言葉を失い、そのまま電話は切れた。
夫の「いいかっこしい」は、もはや他人に対する見せかけの優しさでしかなかった。娘を犠牲にし、家族の絆を壊してまで手に入れた「いい人アピール」に、いったい何の意味があるのだろう。
私は今、娘と実家で穏やかな日々を過ごしている。父や母は娘を温かく迎え、娘の笑顔も戻った。夫との関係がどうなるかはまだ分からない。だが一つだけ確信している。
――娘の心を守るためには、もう二度と「いいかっこしい」の犠牲にしてはならない。
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