平安時代、数々の謎と魅力に包まれた紫式部と藤原道長の関係は、現代に至るまで多くの議論を呼んでいます。特に道長の娘、彰子(あきこ)の教育係として宮廷に仕えた紫式部は、その才能と美貌で道長との間に一種独特の関係を築いていたとされています。今回は、その関係の背後に隠された物語を紐解きます。
紫式部が一条天皇の妃、彰子の教育係として宮廷に仕えることになったのは、彼女の文学的才能が大いに評価されたからです。藤原道長は、天皇が『源氏物語』を好んで読んでいたことを知り、この作品の作者である紫式部を娘の側に置くことで、彰子が天皇の寵愛を得やすくなると考えました。
しかし、この道長の思惑には、さらに深い意図が隠されていたのかもしれません。紫式部の才能に惚れ込んだ道長は、彼女に対して特別な感情を抱いていたのではないかという説が数多くあります。その関係が単なる主従関係に留まらず、互いに密接な交流を持つ間柄へと発展した可能性も指摘されています。
彰子が出産のために実家である土御門殿に里帰りした際、紫式部も同行しました。土御門殿には、道長やその正妻である源明子(げんのあきこ)も共に暮らしていました。宮廷の一角で繰り広げられた紫式部と道長のやり取りは、単なる上司と部下の関係を超えたものでした。
ある朝、紫式部が庭を眺めていると、道長が広大な庭を歩いている姿を目にします。庭に咲き誇るオシロイバナを見つけた道長は、その一枝を摘み、即興で詠んだ和歌を紫式部に送りました。「この花の色を見れば、秋の訪れを感じるだろうか?」という問いかけに、紫式部はすぐに答えました。「私はすでに盛りを過ぎた身、美しいこの花に比べると見劣りしてしまう」と謙遜する内容の和歌を返します。
このやり取りは、当時の貴族たちの間で行われていた恋の駆け引きを彷彿とさせるものであり、二人の関係が単なるビジネスライクなものではなかったことを示唆しています。
道長はその後も紫式部に対して、軽口を交えた和歌を送り続けました。ある日、彼は『源氏物語』を手に取り、「このような物語を書く人は、さぞかし恋愛経験が豊富なのだろう」と皮肉めいた和歌を送ります。現代であればセクハラとも取れる発言ですが、当時の貴族社会では、これが一種の遊び心とされていました。
紫式部はこれに対して、「私はまだ誰にも口説かれたことなどありません」と返しました。このやり取りは、二人の間に緊張感と親しみが入り混じった複雑な関係があったことを物語っています。
藤原道長が紫式部の「目かけ」であったという説が存在しますが、その真偽は未だに明らかではありません。当時の資料には、道長が紫式部に対して特別な感情を抱いていたことを示唆する記述がいくつかありますが、決定的な証拠は見つかっていません。
紫式部が道長の側室の一人であったかどうかはさておき、彼女が道長にとって非常に重要な存在であったことは確かです。道長は紫式部の才能を高く評価し、彼女を支援することで、自らの政治的利益をも追求していたのです。
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