昭和40年代後半のある晴れた日の朝、私たち家族は名古屋空港へと向かった。母の妹、つまり私のおばの新婚旅行の見送りのためだった。小牧市の名古屋空港は当時、愛知県の玄関口として多くの人々に利用されており、その賑わいはひと際目立っていた。
名古屋空港は1952年から2005年まで、その役割を果たしていた。しかし、中部国際空港の開港により、多くの旅客定期便がそちらに移転し、現在の名古屋空港の様相とは大きく異なる。当時の空港は活気に満ち、出発ロビーには旅行者や見送りの家族たちで溢れていた。
私たちはタクシーに乗って空港に到着した。タクシーのデザインは今とは異なるものの、どこか懐かしさを感じさせるもので、その時代の雰囲気を色濃く残していた。
おばの新婚旅行はハワイへのもので、家族全員が彼女の幸せを祈りながら見送りに駆けつけたのだ。
空港の建物は二階建てで、シンプルな造りだったが、その分親しみやすさがあった。私たちはロビーで待ちながら、おばとその夫がチェックインを済ませるのを見守っていた。周囲には他の家族連れやビジネスマンたちが忙しそうに行き交っていた。
いよいよ出発の時間が迫り、見送りの瞬間がやってきた。おばは私たち一人ひとりに声をかけ、感謝の言葉を伝えた。その時、私の心には一抹の寂しさが広がったが、それ以上におばの幸せを願う気持ちが強かった。彼女の新しい生活の始まりを祝福しながら、手を振って見送った。
突然、ロビーの一角で騒ぎが起こった。
何かが落ちた音がし、人々がざわめき始めた。私たちもその方向に目を向けると、一人の男性が倒れているのが見えた。周囲の人々が駆け寄り、救急隊が呼ばれた。その場の緊張感が一気に高まり、私たちもその場に釘付けとなった。
しばらくして救急隊が到着し、男性はすぐに医療処置を受けた。幸いにも、彼の容態は安定しているようだったが、その瞬間の驚愕は私たちの心に深く刻まれた。
空港という場所での予期せぬ出来事は、旅立ちの喜びとともに人々の記憶に残るものだ。
おばの出発が無事に済んだ後、私たちは改めて空港の風景を眺めた。昭和の名古屋空港は、多くの人々の思い出が詰まった場所であり、その日も新しい物語が刻まれたのだ。
家に帰る道すがら、私たちはおばの話をしながらその日の出来事を振り返った。新しい人生のスタートを見送ることの喜びと、思いもよらぬ出来事の驚きが入り混じり、忘れられない一日となった。
名古屋空港の風景は時を経てもなお、私たちの記憶に鮮やかに残っている。あの場所で見送ったおばの幸せな笑顔と、その後に起こった出来事は、昭和の一コマとして語り継がれるだろう。時代が移り変わっても、人々の心に残る思い出は永遠に色褪せることがないのだ。
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