1964年東京オリンピックの思い出
東京オリンピック・パラリンピックまで2年を切った今、1964年の東京オリンピックを思い返すと、当時の日本はどのような風景だったのか気になるところだ。秋葉原の発展を語る松波道廣さんの話を通じて、半世紀前の熱狂を振り返ってみよう。
秋葉原とオリンピック
NPO法人「秋葉原観光推進協会」理事の松波道廣さんは、秋葉原がオリンピックによってどのように変貌を遂げたかを語る。「秋葉原は1964年のオリンピック開催に向けて、開発ではなく、消費者の購買意欲によって恩恵を受けた街でした。当時、人々はオリンピックをカラーテレビで見たいと願い、秋葉原に殺到したのです」
松波さんの父、松波重久氏が経営していた松波無線本店がオープンしたのも、ちょうど1964年。
秋葉原ラジオ会館電化ビルの誕生やSONYの看板が掲げられるなど、秋葉原は無線・家電の街へと変貌を遂げていた。
チケット争奪戦とテレビ観戦
松波さん自身も、中学三年生の時にオリンピックを直に見たいとチケット争奪戦に参加した。「バレーボールや柔道といった金メダルが期待できる競技のチケットは激レアで、手に入れたのは10メートルの高飛込のチケットでした。代々木オリンピックプールまで見に行ったことが懐かしいです」
一方で、多くの人々はチケットを手に入れることができず、テレビで観戦するしかなかった。「オリンピック以前は白黒テレビが一般的でしたが、カラーテレビで観戦したいというニーズが高まり、松波無線でもカラーテレビが爆発的に売れました」
カラーテレビの普及と高度経済成長
日本にカラーテレビが普及した背景には、1959年の皇太子明仁親王と正田美智子さまの結婚パレード、そして1964年の東京オリンピックが関係している。
これらの出来事がカラーテレビ導入の呼び水となり、高度経済成長期の「カラーテレビ」「クーラー」「カー」の新三種の神器、通称“3C”文化が根付くきっかけとなった。
松波無線の屋上に掲げられたSONYの看板は、その象徴とも言える。「カラーテレビは赤いアンテナが特徴で、団地では誰がカラーテレビを持っているか一目瞭然でした。競い合うようにカラーテレビが普及していったのです」
昭和40年不況と秋葉原の繁栄
オリンピックが終わると、日本は昭和40年不況に突入するが、秋葉原はその影響を受けなかった。「松波無線のような中小の電機メーカーは不況知らずでした。ニュータウン構想に伴い、首都圏各地に大規模団地が作られたことが大きな要因でした」
カラーテレビの普及は、団地内での競争心を刺激し、さらに広がりを見せた。「東京オリンピックは、人々の暮らしを変えるきっかけとなりました。大きなトピックは、消費者のニーズを引き出し、時代を動かす力を持っているのです」
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