見合いで知り合い、月日を重ねるうちに、私は彼に静かな好意を抱くようになっていた。穏やかな口調、整った身なり、仕事に対する真面目さ。結婚は互いの生活を重ねる営みだとすれば、彼となら丁寧に重ねられる――そう思っていた矢先、彼が言い出したのが「ブライダルチェック」だった。
「私子が子どもを産めない病気を持っていたら困るから、受けてくれないか」
言葉自体は理にかなっている。結婚は将来の設計と隣り合わせだ。私は落ち着いて頷いた。ただし、条件をひとつ添えた。「わかりました。では、あなたも受けてください」。彼は少し間を置き、「もちろん」と答えた。そこで私の警戒のメーターは、ようやくゼロに近づいたはずだった。
結果が出たのは、それから間もなくのことだ。私は何も異常なし。けれど、彼の診断票には、無情な文字が二つ並んでいた。性病――それも一つではなく、二種類。血の気が引く、という表現が本当にあるのだと知った。
好意は百年どころではない氷点下へと急降下し、感情という感情が一斉に凍りつく。
私は、いい年齢ではあるものの交際経験のない身である。だから、こちらに感染の可能性は起こり得ない。とはいえ結婚となれば、互いの健康を確かめるのは当然の段取りだと考えていた。だからこそ、彼の「子どもが産めない病気だと困る」という言い分に、少なからず傷つきながらも応じたのだ。だがフタを開ければ、疑いの矢印は最初から一方通行で向けられていた。自分には刺さらない、とでも言いたげに。
彼は動揺ののち、奇妙な平静を取り戻すとこう言った。「治療するから、支えてほしい」。その一言で、私の中の最後の糸がぷつりと切れた。支えるとは、責任の分有である。だが、原因も経路も説明しないまま支えを求めるのは、支える側への暴力だ。ましてや、相手に「検査を受けろ」と懸念を向けたのは彼自身である。私にだけ透視を要求し、自分の影は見て見ぬふり。そこにあるのは誠実ではなく、都合の良さだけだった。
怒鳴りたい衝動は確かにあった。「ふざけているのか」と。けれど、私は波風を立てぬ道を選んだ。仲人に経緯を伝え、私の上司にも事情を説明し、静かにお断りの段取りを整える。彼にも直接の責め言葉は向けなかった。言葉は刃物だ。勢いで振り回せば、自分の手も切る。私は淡々と、しかし確実に距離を取った。
この一件で痛感したのは、健やかさの問題が単なる医学的な有無を超えて、信頼の構造そのものに関わるという事実だ。
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