同じ大学で学び、幸運にも同じ企業に総合職として入社した。福利厚生は手厚く、収入にも余裕があった。勢いだけではない、生活の見通しの上に立つ結婚——入社一年で私たちは夫婦になり、穏やかな新生活を始めた。ここまでは、誰が見ても「順風」に映っただろう。
転機は結婚五年目。夫に中国への単身・長期出張が言い渡された。帯同不可。運用は一か月の滞在→日本に三日の帰国→再び一か月の滞在、という回転を延々と繰り返す。気づけば合計十か月以上をすでに中国で過ごしていた。もちろん、私は日本で働き続ける。夫と同じ額の給料を得て、私の収入で日本での生活を回す。「家計の二本柱」のはずの結婚は、実態として“別居と自立”に近づいていった。
夫の出張中の生活は規則だった。現地の仕事は二十時終了(日本時間二十一時)。その後、午前零時(日本時間一時)まで飲み歩くのが常態化していた。最初の頃、私は素直に心配した。海外で連夜の深酒は大丈夫なのか、体調は崩れないのか、トラブルに巻き込まれないか——しかし、何度助言しても改善しない生活を見続けるうちに、心配は摩耗し、無力感だけが積もった。
いつからか私の胸には別の言葉が居座るようになる。「これ、結婚してる意味ある?」
思考は次第に冷たく硬くなった。彼の夜更けのルーティンの向こう側に、会社の付き合いだけではない“何か”を疑う自分がいる。いかがわしい店の明かりを想像しても、不思議と心は波立たなかった。怒りより先に、冷えが来た、というのが正確だろう。
そんな生活の中で、もうひとつ私の睡眠を削り続けたのが、深夜一時の電話だった。発信は夫。「声、聞きたいから」。愛情の証しのようにも聞こえるその台詞は、次の瞬間には自己顕示に変わる。「せっかく電話かけてやったのに」「毎日電話してる俺は良い夫だろ?」。私が翌朝の早い出勤を理由に切り上げようとすれば、「え? 切っちゃうの? 何してたの?」と責め口調へ転じ、通話は不必要に引き延ばされる。私は私で働いている。疲れて声のテンションが低ければ、それ自体が彼の不満の種になる。電話が終わる頃、温もりの代わりに残るのは沈殿した疲労だけだった。
やがて、夫は奇妙な“寛大さ”を演出し始める。ある日、彼は「念のため」と言いながら、妙ににやついた顔で離婚届を取り出した。すでに記入済みだという。私はその紙を受け取り、黙って引き出しにしまった。彼の内心が見えないほど私も青くはない。「大したことない仕事を大きく見せ」、「忙しい俺」を過剰に演出する彼なら、「妻のために離婚届を書いて渡しておく俺、すごいだろ?」という“寛大アピール”の一環なのだろうと察しがついた。
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