「今日から母さんはうちで暮らすから」
玄関先でそう告げられた瞬間、私は自分の耳を疑った。
私の名前は満山かなえ、三十歳。三十三歳になる夫・弘人とは友人の紹介で出会い、正反対の性格に惹かれて結婚した。私は穏やかで自己主張が苦手。夫は向上心が強く、物事を決めるのが早い。交際中はその頼もしさが魅力に思えた。
しかし結婚生活が始まると、その“決断力”は次第に“独断”へと変わっていった。
共働きのため家事は半分ずつ、という約束もいつしか崩れた。
「俺のほうが稼ぎが多いのに、家事分担はおかしくないか?」
その一言を境に、夫は家事をほとんどしなくなった。私は納得しきれない思いを抱えながらも、波風を立てたくなくて受け入れた。
そんな矢先、父が脳梗塞で倒れた。幸い命は助かったが、麻痺が残り介護が必要になった。母を早くに亡くした私を、父は男手ひとつで育ててくれた。今度は私が支える番だと思った。
実家は車で一時間。私は同居を提案した。
だが夫は即座に却下した。
「親の面倒は自分で見るって決めたんだろ。家庭に持ち込むな」
せめて家事を少し負担してほしいと頼んでも、「忙しい」の一点張り。義母が両家の親を看たことを持ち出し、「自分の親くらい見られるだろ」と言われた。
私は仕事を辞め、父の介護に専念した。
しかし家に入る収入が減ると、夫の態度はさらに横柄になった。
疲れ果ててレトルトを出した夜、「こんな手抜き料理を出すな」と怒鳴られた。
「俺に食わせてもらってるくせに」
その言葉は、胸に深く刺さった。
私は内職を始め、少しでも自立しようとした。だが「小遣い程度の稼ぎ」と嘲られ、家事も介護も完璧にこなすことを求められた。
やがて父は肺炎を起こし、帰らぬ人となった。
悲しみに沈む私に、夫は形ばかりの慰めを口にしたが、私の心はもう離れていた。
数か月後、今度は義父が他界し、義母が一人残された。
「母さんを引き取ろう。ホームに入れるのはもったいない。うちで面倒見れば金も浮くし、遺産も増える」
私は激怒した。
「私の父との同居は拒否したのに、どうしてあなたの母は当然なの?」
だが夫は笑った。
「状況が違うだろ。冷静に考えろよ」
私は話し合いを諦めた。ところがある日、何の前触れもなく夫は義母を連れて帰ってきたのだ。
「今日からここで暮らすから」
私は即座に言った。
「あなた一人でやって。私は出ていきます」
「なんでそうなる? 親の面倒を見るのは嫁の役目だろ!」
その時だった。
「いい加減にしなさい」
静かに、しかし鋭い声が響いた。義母だった。
「弘人、私は同意を得ていると聞いたから来たのよ。どういうこと?」
夫は言葉に詰まった。
義母は私に向き直り、深く頭を下げた。
「こんな息子に育ててしまって申し訳ないわ」
私は慌てたが、義母は続けた。
「私は確かに両家の親を見た。でも介護が必要な状態ではなかった。あなたのお父さんの時とは全く違う。それに私は働かずに済んだ環境だった。状況を無視して同じことを求めるなんて愚かよ」
夫は動揺し、「母さんも俺たちと暮らしたほうがいいだろ」と必死に取り繕った。
しかし義母はきっぱりと言った。
「私は施設に入る。貯蓄もあなたには残さない。親子の縁も切るわ」
「何言ってるんだよ!」
「あなたは介護を甘く見ている。自分でやったこともないくせに」
義母の言葉は容赦なかった。
その姿を見て、私は決意した。
「私も離婚します。もう振り回されたくない」
「俺は悪くないだろ!」
最後まで自分の非を認めない夫を見て、私は迷いなく家を出た。
その後、正式に離婚は成立した。
私は再就職し、自分の力で生活している。義母は宣言通り施設へ入り、遺産は慈善団体へ寄付する手続きを進めているという。夫とは面会を拒否している。
私は時折、義母を訪ねる。二人でお茶を飲みながら、穏やかな時間を過ごす。
元夫から復縁を求める連絡が来ることもあるが、返信はしない。
結婚は人生のすべてではない。
誰かの“都合のいい理屈”に縛られる必要もない。
私は自分の人生を、自分の足で歩くと決めた。
それが、あの日涙を流した私への、最大の答えである。
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