結婚して数十年――かつては、帰宅すれば「おかえり」と迎えてくれた家だった。だが今の我が家には、温度がない。妻・明美は俺を「あなた」ではなく「あんた」と呼び、娘・茜は目すら合わせない。
俺は中居 恒一、四十六歳。ホテルマンとして真面目に働いてきたつもりだったが、家庭だけは取り戻し方が分からなくなっていた。
そんなある日、勤務中の俺の携帯が鳴った。画面には、何年も会話らしい会話をしていない娘の名前――「茜」。
「……お父さん、熱が出て……」
途切れ途切れの声は、今にも消えそうで、俺は職場を飛び出した。
家に着くと、茜はうなされながら横になっていた。薬を飲ませ、氷枕を当て、ようやく落ち着いた頃、俺は居間の異変に気づく。いるはずの妻がいない。机にはコンビニ弁当が一つ。
電話をかけても出ない。
「……お母さんは?」
そう問うと、茜は淡々と言った。
「お母さんなら、電話に出ないよ。今日はお父さん、夜勤の日だから」
意味が分からず固まる俺に、茜はスマホを差し出した。
「これ、聞いて」
再生された音声には、明美の甘い声と、聞き慣れた男の笑い声があった。俺の上司、須藤さん――豪快で面倒見がよく、家族ぐるみの付き合いだった男だ。二人は楽しげに笑いながら、俺を「冴えない」「父親失格」と貶していた。
血の気が引いた。怒りで視界が揺れた。だがそれ以上に、隣で静かに息をする娘の存在が俺を現実に繋ぎ止めた。
翌朝、夜勤明けの時間より少し前に、玄関の鍵が回った。明美が帰ってきた。
「何してんの」
いつも通りの見下すような目。謝罪も説明もない。
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