突然の婚約発表と方子様の涙
ある日、何気なく手に取った新聞を見て驚愕した方子様。そこには、自分の写真と異国の王族、朝鮮利用長最後の皇太子・李垠との婚約が大々的に報じられていたのです。親の決めた政略結婚に覚悟をしていたとはいえ、異国の王族との結婚という突然の知らせに、方子様はその場で泣き崩れてしまいました。
婚約から結婚へ、愛の育まれた日々
婚約が決まってから、李垠王との結婚までの間に二人の絆は徐々に深まっていきました。政略結婚であったにもかかわらず、二人は意外にも愛情に満ちた関係を築いていったのです。その証拠に、李垠王の帰国が一時延期された際、方子様は彼を思い日記に綴りました。「天下はどんなにしていらっしゃるかしら。
暴動はどんな風なのかしら。」遠く離れた地にいる夫を思いやる気持ちが、この一文からも伝わります。
朝鮮での悲劇と二人の愛
結婚後、方子様と李垠王は一緒に朝鮮を訪れ、そこで大歓迎を受けました。しかし、幸せな日々は長く続きませんでした。滞在中、最愛の長男が突然亡くなるという悲劇が二人を襲います。この出来事により、夫婦は深い悲しみに暮れることとなりました。
日本の敗戦と財産の喪失
1945年、太平洋戦争が終結すると、日本は朝鮮の領有権を失い、李垠王と方子様もまた、日本国籍を喪失します。
その後、二人は在日韓国人として扱われ、公職追放の憂き目に遭います。さらに、生活も困窮し、詐欺に遭うなど、次々と不運が重なりました。ついには、赤坂プリンスホテルとなった豪邸も手放すことになり、田園調布に移り住むことになります。
国籍喪失と無国籍の苦悩
1952年、サンフランシスコ平和条約が発効されると、李垠王夫妻は無国籍となりました。
李垠王は韓国に戻ることを希望しましたが、当時の大統領である李承晩はこれを拒否。結果として、李垠王は日本でも韓国でもない、無国籍の状態に追い込まれました。
晩年の方子様、そして李垠王との再会
1962年、朴正煕大統領の計らいにより、李垠王は韓国籍を回復し、政子方子様と共に56年ぶりに韓国に帰国します。しかし、李垠王はすでに寝たきりの状態で、病院に直行することとなりました。それでも、韓国の市民たちは夫婦を温かく迎え入れ、二人は多くの人々に見守られながら新たな生活を始めます。
福祉活動に尽力した方子様
韓国での生活は決して裕福ではありませんでしたが、方子様は夫のために福祉活動に力を注ぎました。七宝焼きの研究所を設立し、その収益を障害児教育に投じるなど、社会の弱者を支援する活動を続けました。
その結果、方子様は韓国で「主に」(母親)と親しまれ、多くの人々から尊敬される存在となりました。
「幸せな人生だった」との言葉を残して
方子様は1989年、87歳で「幸せな人生だった」と言い残し、この世を去りました。一時は財産も国籍も失い、苦しい生活を送りましたが、それでも自らの運命を受け入れ、誇り高く生き抜いた彼女の姿は、多くの人々の心に深く刻まれています。
子供たちへの影響と遺された絆
方子様の次男、利休もまた、日本国籍を失い、韓国籍を回復することが許されました。利休は実業家として成功を収めましたが、その後の人生も決して順風満帆ではありませんでした。父李垠王の死後、利休は日本に移り住みましたが、母の死を看取った後、彼もまた心臓麻痺で亡くなりました。
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